一流ブランドから圧倒的な支持を受けるジロンジュエリー

世界が大恐慌真っ只中の1929年、初代の高橋郡治は麻布、二の橋で西洋家具の制作所を営んでいた。

折からの不況の中、会社は倒産、2代目の長男、高橋二郎は学業を止めざるを得なくなり、全寮制の御木本真珠店、装身具工場、(日比谷、内幸町)に勤める事となった。
二郎15歳の時(昭和4年4月14日)と工場史に記されている。

1936年から若くして皇室の御調度品制作班に選ばれ王冠、ティアラその他の大作の数々を手がける。(ミキモト装身具100年史より)

戦争が激化する中で工場から出征…終戦の翌年に中国から帰還、目黒工場へ戻る。

その後、独立を許され、有力な下請け外注となり杉並に工房を設ける。
1957年にはジロンジュエリーの前身となる法人を設立。
2007年ミキモト装身具100周年には大正生まれの名工として
「時代を繋ぐ職人」に選ばれその名誉を受けた。

三代目の高橋正志は1973年インダストリアルデザインを学んだあとに英国ロンドンに渡り、宝飾の修行をした。
3年半、ホンジーカレッジオブアートに学びながら一流のダイヤモンド商、喫煙具の老舗、宝飾工房で経験を積む。

しかし、オイルショックで低迷し、瀕死の業界に二郎からの強い指示を受け志半ばで帰国。

その後、経営は徐々に三代目、正志に引き継がれた。
実質的創業者の二郎の名からジローをなぞりJIRONと命名したのも三代目正志によるものである。

1985年からDe Beers主催、ジュエリーのオスカーと言われたアワードには立て続けに6回にわたり制作スポンサーとして受賞。
又、他社の受賞者作品の制作は10点以上受け持った。

数々の受賞が認められ、1998年にはデビアス社から
名誉あるDIA審査員の指名を受け、アジア太平洋地区のホスト審査員長を務める。

(1967年、第2回 DIAに我が国初の受賞作品の2点の制作は二郎の手によって創られ、当時話題となった)
国内外の多くのアワードに名を残し業界でも名声を高めていき、現在では、ハイジュエラーとして日本で展開する一流ブランドから圧倒的な支持を受けている。

インターナショナル賞制作、10数点の実績

昭和33年、高橋貴金属工芸所として会社組織にし、1968年に現在の社名に改めたジロンジュエリーは
昔ながらのミキモト時代の良き伝統を受け継ぎ、丁寧な手造りの技術を守り、宝飾技術の正統派を任じ、創りに専念している。

昭和41年にはワシントンで隔年ごとに開かれる「さくら祭」の女王の真珠の王冠(ミキモト)を制作した。

また昭和43年には、初期の「ダイヤモンド・インターナショナル賞」にも、ネックレスとブローチと同社制作の2点(依田忠出品)が、各国から選びだされた20点のうちに入り、入賞の栄誉を受けた実績を持っている。

それ以後、現在まで、「ダイヤモンド・インターナショナル賞」の制作は数十点を重ね、その後、ジロンジュエリーとして同コンテストに参加し受賞した。

ジロンジュエリーのモットーは、「ジュエラーは一生の勉強」という言葉である。
これは創業者、高橋二郎の体験が込められている。
一人前のジュエラーになるためには、単に指先の技術だけでなく、幅広い経験が必要である。
自社の制作品が高品質な由縁である。

アトリエ・サロン開店の想い

ジロンジュエリーという企業の存在が、あまり顧客に知られていないのは、ジロンジュエリーが宝石業界でいうメーカーに徹していたためだ。
メーカーとは、小売店や卸企業など、自社で商品を開発する機能のない企業に代わって、ジュエリーをデザインし制作するという仕事を行う企業を指す。つまり陰の力持ちである。

ジロンジュエリーが作った多くのジュエリーは様々な名称をつけられて世の中で売られるのだが、ジロンジュエリーという名前はどこにも出ない。
だからジロンジュエリーの作ったジュエリーを身につけた人でも、作り手の名前は知らないということになる。
こうした理由もあって、2007年、荻窪駅のそばに自社のアトリエ・サロンを開いた。